2018年03月08日

  きく出たから記憶にとどめている読者もあろう。


  樋口中將は橋本重房中佐に、


  「秋田に私の懇意な、非常に美味い酒を造る酒造元がある。そこの醸造用の六尺樽へ梯子をかけて登って、新酒に首をつっこんで飲むのは、最高のもてなしとされている。この度の祝いと禮に、あなたに是非一度それをやってもらいたい」


  と言った。


  橋本中佐は飲めない口だし、その後秋田を訪れる折もなくてついにその機會を得なかったが、高塚先任參謀は、


  「ツサがいたおかげで成功したよ。何か君に記念の品を上げたいが、これは俺がシャムの武官をしていて帰國する時、ワニットという向うの商工大臣が餞別にくれた物だ。取っておいてくれ」


  と言って、銀のシガレット・ケースをくれた。名前入りの立派な品で、橋本氏は今でも大切にこれを保存している。


  のちに軍令部へ報告に行った時にも、彼は聯合艦隊司令長官からとしてポンカンを一と箱、海軍大臣副官からウイスキーを一と箱贈られ、その労をねぎらわれた。


  海軍の侍従武官は、


  「陛下がキスカ撤収作戦のことでは非常に宸襟を悩まされて、成功したら夜半でも起して知らせるようにとおっしゃっておられたので、お休み中のところへお知らせ申し上げたら、『そうか、それはよかったネ』との禦言葉がありました」


  と、橋本中佐に話した。これを聞いた時はほんとに嬉しかったと、橋本重房氏は言っている。


  陸軍の峯木司令官は、「ケ」號作戦のはじまるころから、キスカ島に咲き亂れている草花を、一種類ずつ手帖にはさんで押花にし、もし幸いに生きて還れたら母校にでも記念に寄付しようと思っていた。帰還後、幌筵へ侍従武官・坪島少將の禦差遣があり、聖旨伝達式のあと、會食の際、陸大教官當時の同僚だった坪島少將にこの話をしたところ、


  「それはたいへん珍重なものだから、母校より、是非陛下に獻上してほしい」


  と言われた。


  たまたま高射砲隊の副官で、北海道帝大の醸造科を出たある中尉が、同じようにキスカの植物の標本を作って持って帰っていた。それは、峯木司令官のものよりずっと立派に整理してあったので、峯木少將はこの中尉に頼んで自分の分も整理してもらい、坪島侍従武官に託した。


  後に、武官から、


  「陛下の禦覧に供したところ、植物にお詳しい陛下はたいへん禦満足だった」旨の通知があったという。


  竹永一雄氏は、終戦直後佐世保で恩師の藤原咲平博士に會った時、


  「あの時は軍令部で、『あなたのところの養成所を出た竹永少尉が実によくやってくれました』とほめられたよ」


  という話を聞かされた。


  ガダルカナルの撤退以後、華々しいことの一つもなかった帝國海軍にとって、このキスカ撤退は、たしかに明るい大成功の作戦であった。こんにちでも人々がこれをしばしば話題にするのは不思議ではない。


  しかしなぜこんな奇蹟のようなことがおこったかというと、その最大の原因は、実はアメリカ側のミスにあった。


  七月二十六日の○時七分、戦艦をふくむ有力なアメリカ封鎖艦隊は、キスカの南西九十浬にレーダーで日本艦隊らしき目標を探知し、戦艦・ミシシッピー、ニュー・メキシコを先頭に約三十分の猛烈な砲戦を展開した。


  巡洋艦・サンフランシスコ、サンタフェのレーダー係は、そんな目標は見えないと言って、艦長と砲術長に|叱責《しつせき》された。


  ほんとうはサンフランシスコの電探員たちの方が正しかったので、それは奇妙な幻の日本艦隊であった。東のアムチトカの島影の反射がレーダー・スクリーンの上に出たのだろうという説もあるが、実體は何であったか、今もって分らないらしい。


  いずれキスカに上陸作戦を実施するつもりで、島の周辺を|遊弋《ゆうよく》しながら時々艦砲射撃など加えていたアメリカ艦隊は、この一方的な戦闘のために補給の必要を生じ、一日だけ島の囲みをといて、南の方の補給地點に集合したのである。


  それが七月二十九日であった。


  木村司令官の「帰ればまた來られる」といった沈著な





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